平将門の生誕地・豊田館跡に築かれた城~向石毛城(むこういしげじょう・下総(茨城))
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平将門公の歴史についてあらためて知る。。
2025年5月9日(金)。
この日は、石毛城(いしげじょう)に続いて、
同じく茨城県常総市にある向石毛城(むこういしげじょう)も訪れました。

◉城のジャンル
平城(ひらじろ)
◉文化遺産としての見どころ
◉防御施設としての見どころ
◉アクセス
付近に駐車場なし
関東鉄道常総線・石下駅からタクシー約4分、徒歩約10分
この向石毛城(むこういしげじょう)も、石毛城と同じく、
関東鉄道常総線石下駅から徒歩(またはタクシー)で訪れることをお勧めします。
というより、豊田城や石毛城と合わせて巡られると効率がいいですし、
豊田氏の歴史、そしてなにより、平将門公の歴史について深く知ることができるので!
なんせ、この豊田の地は将門公の生まれ故郷ですからね!
向石毛城(むこういしげじょう)も、別名を平将門公豊田館跡という別名がありますし。

この日は、石毛城を訪れたその足で、平将門公豊田館跡へ向かいました🚶
全国的にも有名な鬼怒川(きぬがわ)を渡っていきます。

橋の上から眺めた鬼怒川(きぬがわ)の様子です。
平将門が生きた時代、そして戦国の世にも、この川が戦場を隔てる防衛ラインとなっていたでしょうか。

歩くこと、10分程度だったでしょうか。。
目的地の平将門公豊田館跡へ到着。
ちょうど裏側になるようです。

館の跡(向石毛城跡)はこのような。。
それほど広くはありませんが、、ここに多くの歴史とロマンが眠っています✨

正面石碑の中央には平将門公が描かれていました。
大河ドラマ『風と雲と虹と』、良き作品です。
私も観ました。平将門公について深く知りたければ、ぜひ観ていただきたいと思います。

その石碑の右側には平将門公についての歴史が綴られています。
ここが将門公の生誕の地であり、父上の平良将が住まいとしていた館だからですね。
なぜ将門が伯父や親族と戦わなければならなかったのか、、
なぜ将門公は結果的に朝廷に対して謀反を起こすことになってしまったのか、
(謀反と疑われてしまったのか、、)
その概要がここに記されています。

そして、同じ石碑の左側には、向石毛城についての歴史が綴られています。
この豊田館跡に、向石毛城が築城されたようです。
平将門公が討たれたのち、その従兄弟の平貞盛がこの地を治め、
その子孫が豊田姓を名乗り、戦国の世にも豊田氏がこの地を支配しました。
こう考えると、歴史のつながりを感じ、たいへん興味深く思えます。
その豊田氏も、新興の多賀谷氏に滅ぼされてしまいますが。。

館跡には、しっかりとこちらの石碑もありました!
『平将門公』と刻まれた石碑をみると、感激します。
将門ファンの方なら、共感いただけるはず。。

そして、その石碑と向かい合うように、こちらの将門公の像が!!
これまた、将門公のファンにとっては感激の銅像ではないでしょうか✨
豊田館を取り巻く周囲の地形を確認しながら帰路へ。。
平将門公豊田館跡は戦国の世には、向石毛城へとその形を変えますが、、
やはり将門公の生誕の地というイメージの方が強すぎて、、
向石毛城の遺構うんぬんというのはさして気にならなくなっていました、、。😅

先ほど歴史を学んだ石碑の裏側に、、
実は向石毛城を取り巻く周囲の地形などが記されていました。
鬼怒川を挟んで対岸に石毛城が、、。
少し離れた豊田城とともに、相互連携の構えをとっていたように見受けられます。

城跡(館跡)の検分を終え、
こちらの『いしげはし』を渡って帰路に。

来た時とは反対側の鬼怒川を眺めながら。。
にしても、やはり雄大な川ですね。。

そして向こうには、豊田城の模擬天守が見えます!!
これだけ規模が大きいと、遠くからでも他の城跡とその位置関係を把握できるため、
たとえ”模擬”天守であっても、その存在感は重要ですね。
豊田城については以下のリンクからご覧ください。
また、将門公の首が落ちたと伝えられる”首塚”については以下の記事を。
これにて向石毛城の検分を終えますが、、
やっぱり将門公のイメージが強すぎました。。💦
また、大河ドラマ『風と雲と虹と』を観たくなりました。
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