深い堀、そしてお手本のような食い違い虎口に見応えアリ!小田原北条征伐のきっかけとなった城~名胡桃城(なぐるみじょう・上野(群馬))
秀吉が小田原征伐を決めるきっかけとなった城。。
2025年7月19日(土)。
この日は沼田城(ぬまたじょう)に続き、
その支城となる名胡桃城(なぐるみじょう)にも攻め寄せました🚙
群馬県利根郡みなかみ町にあります。

◉城のジャンル
連郭式山城(れんかくしきやまじろ)
◉文化遺産としての見どころ
◉防御施設としての見どころ
◉アクセス
『名胡桃城 般若郭跡』に約20台ほどの駐車スペースあり
JR上越線後閑駅からタクシー約6分、徒歩約40分
目を見張る大石垣!真田信之が支配した上野の要害~沼田城(ぬまたじょう・上野(群馬))
先に紹介した沼田城の支城であり、
秀吉が北条征伐を決めるきっかけとなったのが、この名胡桃城(なぐるみじょう)です。
『沼田裁定』により、秀吉の仲介にて、悔しくも北条方に沼田城を明け渡すことになった真田昌幸。
その上、半ば騙し討ちのような計略で名胡桃の城まで奪われた昌幸は、怒り心頭だったでしょう。
結局、この北条の名胡桃奪取が秀吉の怒りにも触れ、秀吉は北条征伐を決意します。
そして北条氏が滅んでのち、この名胡桃の城は破却されました。
廃城となったのちも、かなり遺構が良好な状態を保っていて、見応え十分です。
名胡桃城は最寄駅からは少し離れています。
群馬県の中でも、かなり山間部に寄った地域でもあり、また、
国道沿いにあることから、車を利用できる方はそちらの方が良いでしょう。

一見すると、レストランのような、、
国道沿いに車を走らせて行くと、こちらの『名胡桃城址案内所』が見えてきます。

その案内所のすぐ横にある、こちらの駐車場。
ざっと20台以上は駐車可能です。

実はこちらの駐車場、名胡桃城の一つの独立した郭(くるわ:城の防御スペース)だったようです。
その名も般若郭(はんにゃくるわ)。
連郭式の城主要部とは堀切で区切られ、独立していることから、
おそらく主要部とうまく連携し、攻め寄せる敵兵をうまく分断していたのかもしれません。

駐車場に車を停め、案内所をやり過ごし(城跡の検分を終えてから寄ります)、
まずは案内所の隣にある城跡へ!
構造がはっきりと分かる馬出しの威容に興奮。
この名胡桃城を訪れ、私は終始、感動しっぱなしでした✨✨
城跡の各防御施設の残存状態が見事だったからです。
久しぶりに感嘆する城跡に出会った気がします。

こちらが、城跡を訪れ、すぐ手前にあった城跡全体図です。
城郭構造としては、ご覧の通り、先ほど説明した般若郭(はんにゃくるわ)が独立した位置にあり、
主要部は三郭〜二郭〜本郭と一直線に連なる連郭式の山城です。
徳川軍を2度に渡り撃退した戦国の名将・真田昌幸が築いた城であり、
ここをきっかけとして、昌幸はすぐ目と鼻の先にある沼田城を攻略しました。

城跡全体図のすぐ下に、このように、名胡桃城を含むこの地域の歴史が説明されています。

そしてこの城跡の素晴らしいところは、
城郭構造が綺麗に残っていることだけではなく、このように、
分かりやすい復元図が至る所に示されていて、これが城跡を訪れる人の城郭理解を助けています😀
こうして眺めてみると、ひじょうに分かりやすいですよね。。
道路に面した一番手前の丸馬出しもはっきりと判別できます。

少し分かりにくいかもしれません。。
今写真を撮影しているこの場所が馬出しに該当するのですが、、
馬出しとは、、
城内の兵たちが一時的に出撃し、攻め寄せる敵兵を撃退するための集結スペースであり、
しばしばその形状によっては出丸(でまる)と称されることもあります。
大阪の陣で真田幸村が構築した”真田丸”は有名です。

馬出しと三郭を結ぶ土橋です。

道路側からではなく、三郭側からみた方が、馬出しの構造は分かりやすいかもしれませんね。
今ではこのように路面が舗装されていますが、、
この区画が馬出しに該当すると思われます。

近くにこのように、説明板もあります。

馬出しに関する説明もありました。
”真田丸”についても言及されています。

この復元図も分かりやすいですね✨
今ではこの馬出しの手前の堀は埋められているようです。

馬出しの脇に、存在感を放つ堀が。
これが、般若郭(はんにゃくるわ)とを隔てる堀切(ほりきり)でしょう。
これだけ形がくっきりと残っていると、ホント、分かりやすいです。

そして、後から気づいたのですが、、
馬出しの隣に、方形の、台上の防御施設が、。。
復元図でいうところの、外郭(そとぐるわ)と推察します。
こうしてみると、いたるところに城兵の集結地があり、
この名胡桃城の防御構造が固いことが見てとれます。
馬出し郭とも想起される、東西に長い三郭。
次に、三郭から城跡の主要部に逐次、検分を進めていきます。

まずは、三郭手前の堀切を検分し、、

ここが、三郭ですね。
横長に広い印象です。

三郭の説明板です。

この説明を読む限り、この三郭自体が、馬出し郭だったのではないかと。。
実を言えば、最初、この城跡を目にした時、ここを馬出しと勘違いしていました。
その見立ては、あながち間違いでもなかったようです。

こちらが、三郭の復元想像図です。
奥に広がる二郭に比べ、かなり東西に長いことが分かります。
二郭の空堀、土橋、虎口の見事なことよ!!
三郭の検分を終え、続いて二郭に向かいます。
少しずつ、城の中心部へ。

まずは、三郭から二郭につながる土橋を検分。
本来あったであろう土橋の上に、新たに橋を架けたものと思われます。

その土橋が、この大きな堀(説明板でいうところの三日月堀)にかかっています。
何度も言ってますが、、実に綺麗に、見事に残っていますね〜🤩

三日月堀がこのように、崖部まで至り、落ち込んでいます。
実に、攻めにくい構造ですね。

反対側から見た土橋です。
奥に見える木々の向こうが、般若郭(はんにゃくるわ)です。

それでは、この橋を渡り、二郭へ!!
真田の六文銭の旗も見えます。

しばし、この六文銭の旗に見とれました。。

ここは、二郭の南側の虎口(こぐち)ですね。
二郭にいたる入り口がひじょうに狭く、しかも直角に折れ曲がるように設けられています。

虎口(こぐち)についての説明も記述されています。
土橋を渡ってきた時点では、二郭の内部は敵兵からは見えないようになっています。
城内の兵から容赦ない奇襲を浴びることでしょう。
さすが、名将・真田昌幸ですね。

二郭南側虎口の復元図です。
戦国当時は、どの城の虎口にも、このように櫓のようなものが建てられ、
その下の入り口から出入りしていたようです。

この、”食い違い虎口”の説明が秀逸です!!
単純に一直線に配置するのではなく、クランク状に直角に折れ曲がるように造ることで、
攻め寄せる敵兵は、正面からだけでなく、横合い(側面)からも城兵の矢を浴びることになります。
まさしく、”必殺のキルゾーン”ですね。

二郭内部の様子です。
六文銭の旗が眩しい✨

この南側虎口の両脇を固める土塁も検分します。
見学台というところに上れるようです。

こちらの階段から、見学台へ。

土塁の上に上って周囲を見渡すと、なるほど、
城跡の構造がまた少し違って見えてきます。
ここから、攻め寄せる敵兵の様子が丸わかりですし、
目の前の土橋を渡ってくる敵兵に矢を射かけることもあったのでしょう。

さらに、土塁の上から眺めた”食い違い虎口”の様子です。
こうしてみると、ひじょうに分かりやすくないですか?
完全にクランク状に(直角に)虎口が折れ曲がっていますよね。。
土橋を渡って攻めてくる敵兵に対し、この土塁上から、そして目の前の土塁の上からも、
正面&側面射撃を浴びせるわけです。
恐ろしや、、まさに”必殺のキルゾーン”!!😱😱😱

振り返って、今度は土塁の上から眺めた二郭の様子です。
先ほどの三郭とは違い、今度は南北に比較的長い構造になっています。

南側虎口を内側から眺めてみました。
城内の兵は土塁上に登れば、敵兵の様子が丸わかりですが、
逆に敵兵からしたら、死角が多くて危険この上ないことが分かります。

二郭の説明板です。
この図を見ても、南北に長いことが分かりますね。
そして、四周を土塁に覆われています。

この内部には複数の建物があったようです。
そして東側の崖部には、腰郭(こしぐるわ)まで!!
あとで検分します!

二郭の復元想像図です。
郭の内部には、このように複数の建物があったようです。
城兵の待機所だったのでしょうか。

これが、建物跡ですね。
こうしてみると、結構な広さ(大きさ)があります。

ご覧のように、複数の建物跡を確認できます。

そして、二郭の北側には、先ほどと同じように土塁の上に上れる階段が。
上って周囲を確認します。

土塁の上から眺めた、本郭(本丸)側の崖部です。
かなりキツめな崖だということが分かりますね。。
ここに攻めるのは容易ではないでしょう。。

そして、先ほどの説明板で記載のあった東側の腰郭(こしぐるわ)がこれですね!
二郭から一段低いところに、平に造成された区画です。
崖側から攻め登ってくる敵兵をここで撃退していたのでしょう。
まあ、これだけ急斜面な崖を登ってくるのも簡単ではないでしょうに。。

そして今度は、二郭北側虎口です。
南側の虎口と比べ、やや道が緩やかに折れ曲がっていますが、
やはり正面&側面攻撃を浴びることに変わりありません。
ここに設置するということは、、
本郭まで敵をおびき寄せ、撃退しておいて、
退却する敵兵をさらに、ここでトドメを刺そうという、
真田昌幸の戦術でしょうか。。
そうだとしたら、ゾッとしますね。

ここも南側の虎口と同様、土塁に挟まれた構造です。

もちろん、二郭北側虎口の説明板もあります。
”石積み”というところにご注目を。

虎口の門の基底部に石積みがあったようです。

復元想像図がこちら。
土塁の下部に、石積みが多く見られます。
それではここで、二郭北側土塁上から眺めた周囲の様子を動画でご覧ください。
折れ曲がる虎口の様子。
そして、この城がいかに険しい断崖上に築かれているか、お分かりいただけるでしょうか。
いよいよ本郭へ突入!!
見どころの多い二郭の検分を終え、
いよいよ本郭へと侵入していきます。

この土橋を渡り、二郭から本郭へ。
城跡の中心部ですね。

ふと、橋の下を覗き込むと、、
ここの堀も深いですねぇ。。

橋を渡り、本郭へ!
ここは東西南北の長さがほぼ均等です。
それなりの広さがあります。

『名胡桃城跡』の石碑あり!

本郭内の1枚。
この日は好天で、素晴らしい眺めでした。

奥には、このような大きな石碑もありました!

ここからは、周囲の山並み・地形をよく観察することができます。
だからでしょうか。
どの郭にも、物見台(見張り櫓)のようなものが見当たりませんでした。。

本郭を奥まで進むと、、
さらにこの奥に、まだ郭らしきものがあるようです。
行ってみます。

ここが、ささ郭というスペース(防御施設)で、さらに先に袖郭というのもあるようです。
このあたりは、本郭の裏側にあたるので、搦手(城の裏口)に該当しますね。

説明書きもありました。
なるほど、確かに、本郭が外側にむき出しになっていては、
敵から攻められやすくなってしまいますね。

このように、左右を土塁に覆われた細長い構造をしています。

そして、その先に見えたのが、こちらの袖郭。
ここが、いわば物見(偵察)の役割を果たしていたらしいですね。
確かに、見晴らしが良さそうです。

真田の六文銭に関係しているのか、、
やたらと五円玉が置かれていました。。

この先は、危険防止のためか、カラーコーンが置かれ、
侵入できないようになっていました。。

侵入不可、ということで、
ひじょうに見にくいのですが、遠目から撮影📸
残念ながら表示されている文字までは読み取れません。

搦手口(城の裏側)まで到達したので、
ここから元きた道を引き返します。
また違ったアングルで、ここまでの各防御施設をご確認ください。
まずは、ささ郭。

間にある橋を渡り、本郭へ。

本郭を搦手口から眺めたものです。

そしてこの橋を渡り、二郭へ。
ここで、本郭の周囲および二郭にいたる様子を動画に収めましたので、
以下でご覧ください。
仮に、、、
退却する敵兵の視点になってみると、
二郭の北側虎口で土塁の上から一斉射撃を浴び、
二郭内に侵入した時点で、両側から攻撃を受け、、
と、悲惨な光景が目に浮かびます。。
最後に、案内所内を観覧して帰投。
真田昌幸が縄張りした名胡桃城、見事でした!
城内の各所に、敵兵を殲滅する工夫が施され、感嘆の連続でした。

真田の六文銭をあらためて眺め、帰投します。

最後に、この城跡に隣接する『案内所』に立ち寄っていきます。

『案内所』の内部には、真田に由来する貴重な収蔵品が置かれていました。

見事な兜ですねぇ。。

これらの収蔵品を眺めているだけでも、戦国ファンにとっては幸せではないでしょうか。

名胡桃城のジオラマも展示されていました。

搦手口の最先端部にあった郭は、もしかしたら、
この物見郭だったかもしれません。

真田の六文銭をあしらった、矢盾。
案内所の入り口に置かれていました。

それでは、これにて名胡桃城の検分を終わります。
久しぶりに、城の防御構造に見惚れっぱなしの検分となりました。
まだご覧になったことがない方は、ぜひ一度足を運んでみてください。
それでは、またの記事で!!









