佐竹義宣の”城造り”にかける思いを体感!〜久保田城(くぼたじょう・羽後(秋田))

JR秋田駅からほど近く、アクセス良し!!

2024年7月22日(月)。

この日2日目の城跡巡りとなります。

秋田県秋田市にある久保田城(くぼたじょう)へ🚙

久保田城(羽後・秋田県)

◉城のジャンル

平山城

◉文化遺産としての見どころ

評価 :4.5/5。

◉防御施設としての見どころ

評価 :3/5。

◉駐車場所

付近に専用駐車スペースはなし

最寄駅:JR秋田駅から徒歩約10分

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、勝利した東軍の大将・徳川家康に味方しなかったこと、

結局、居城である水戸城から動かなかったことなどがおそらく理由でしょうが、

常陸54万石の大大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、出羽国秋田郡(20万石)への転封(国替)を命ぜられます。

1602年、当初義宣は安東氏が拠点としていた土崎湊城に入城しますが、

54万石の家臣団を収容するには手狭と感じ、新たに久保田城を築城、以後、本城と定めます。

久保田城はアクセスに恵まれています✨

JR秋田駅の西口から徒歩約10分の距離、今では千秋公園(せんしゅうこうえん)の地にあります。

車で訪れる場合も、有料とはいえ、近くに駐車場はたくさんありますので、困ることはないでしょう。

秋田駅の西口から千秋公園を目指して歩いてゆくと、

写真のように大きな蓮池に出くわします。

この蓮池の右側が久保田城跡になります😀

同じ場所に、この案内板もあり、

この地がかつては大手門だったことが分かります。

久保田城は平山城であり、この後もたくさん出てきますが、

城内へ通じる門が多い印象です。

大手門跡の右側の一般道をまっすぐ進んでいきます。

2〜3分ほども歩くと、左側に水堀が見えてきます。

そしてこの場所が、千秋公園(久保田城跡)に通じる入り口です。

今歩いてきた一般道は、『大手門通り』と呼ばれていたようです。

その『大手門通り』から水堀を渡り、この黒門へ。

ホントに、この城は門跡が多いのですよ。。

その黒門近くにある、この案内板。

ここからまずは二の丸を目指していきます。

だだっ広い二の丸は市民の憩いの場

久保田城跡の遺構の数々、その城の造りを眺めていると、

この後の資料館での情報にもよりますが、

佐竹義宣の”城造り”、城下町整備にかける思いを感じられます。

この、虎口(こぐち)のように折れ曲がる道。

城の規模、城郭構造がどうあれ、虎口(こぐち)のような防御施設は戦国の城の必須アイテムですね。

虎口(こぐち)とは、、

城内に攻め寄せる敵兵が容易に侵入できないよう、

門などの出入り口付近の道をわざと傾斜をつけたり、折れ曲がるように造り、

敵兵の侵入速度を遅らせるよう工夫したもの。

その虎口(こぐち)を通過すると、、

だだっ広い広場が目の前に。。。

ここが二の丸のようです。

かなり広く、公園となっているのがわかる気がします。

家臣が集まる集合場所として利用されたことは、よく大河ドラマなどでも見かける場面ですね。

また、能や踊りの見物のために町人に開放されるとは、、

戦国期を終えた、江戸時代の特徴なのかもしれませんね。

この二の丸跡の敷地内にはご覧のような公衆トイレもあります。

この敷地を少し歩いてみます。

少しだけ高さのある芝道を歩きました。

最初に到達した場所とはまるっきり正反対の位置から撮影してます。

こう見ても、ここの広さがお分かりかと思います。

市民の憩いの場となっています。

さらに右奥の方に進むと、噴水もあります。

公園にふさわしい光景ですね。

それではここで、この二の丸跡のイメージをより強くするため、以下の動画をご覧ください。

この動画内に、『佐竹資料館』という矢印版が出てきますが、

現在は残念ながら工事中のため、訪問することはできません。

その代わり、御隅櫓(おすみやぐら)内で佐竹氏の歴史について触れることができます。

先ほどの噴水の場所からさらに右奥に進んでいくと、

彌髙神社(いやたかじんじゃ)があります。

鳥居があり、奥に本殿が。。

公園内にこれほどの規模の神社があるのも珍しい?

その彌髙神社(いやたかじんじゃ)の左側の道をこのように進み、、、

とりあえず目標とする御隅櫓(おすみやぐら)を目指していきます。

御隅櫓(おすみやぐら)は、久保田城では天守閣のような、シンボル的存在です。

矢印板に従い、少し歩いていくと、このような石段を見つけることができます。

この上が本丸跡ですね。

石段を登っていくと、裏門に到達!

まさに、久保田城の裏側にあたるのでしょう。

その裏門(写真左側)のすぐ横に、小さな階段がありました。

ここを登ってみます。

登ってみると、すぐ下に二の丸の敷地を見下ろすことができ、

奥には秋田市の街並みをわずかながら見ることもできます。

本丸の下に広がる帯曲輪を見逃さないように!

実はこの久保田城には、戦国期のような立派な防御施設はそれほどないだろうと考えていました。

何せ、もう関ヶ原の戦い後の、徳川幕府(江戸)時代ですから。

でも、ここに帯曲輪(おびくるわ)があったのです。

帯曲輪(おびくるわ)とは、、

山腹を取り巻くように、細長く、平たい区画であり、

山肌をよじ登ってくる敵兵を上から迎撃するための場所。

この写真の右側が、先ほど登ってきた裏門です。

ここを、奥にまっすぐ進んでいくと、、

やがてこの、帯曲輪門というのが見えてきます。

ほんとに、ここは門が多いです!

左側が土塁になっていて、ここの入り口も虎口(こぐち)のように折れ曲がっています。

その、折れ曲がった先がこのように、、。。

奥はさらに左に折れ曲がっていますね。

完全にS字型の、虎口(こぐち)の構造です。

こりゃ、敵兵が攻め寄せたとしても、手前にある土塁の上から城兵が射撃しやすくなるわけです。

必殺のキルゾーンですね。

この説明によれば、

帯曲輪は本丸の下に広がる、とか。。

この写真の位置に、土塁の上に登る石段があります。親切な設計ですね。

土塁の上から帯曲輪門への道を見下ろした図です。

こりゃ、敵兵の動きが丸見えですよね。。

まさに、ここから”狙い撃ち”です。。

その土塁上を帯曲輪門とは反対側に歩いていくと、

眼下に帯曲輪を確認できます。

ここは後で降りて確認もできます。

この下に広がる帯曲輪の、さらに下から攻め上る敵兵を、

この開けた敷地で城兵が待ち構え、迎撃するわけですね。

土塁の上は、割と広がっていて、写真のように奥に歩いていくこともできます。

また奥まで少し歩いて、違う場所からまた、下に広がる帯曲輪を確認。

ここには、後で下まで行ってみます。

御隅櫓内の資料館にて、佐竹氏の歴史について学ぶ。

この、帯曲輪の上の土塁を歩いていると、

やがて久保田城の天守ともいうべき、御隅櫓(おすみやぐら)に到達します。

まさに、久保田城のシンボル的存在ですね。

この御隅櫓(おすみやぐら)の内部には、

佐竹氏にまつわるさまざまな歴史資料が展示されています。

観覧料は、大人150円、高校生以下は無料です。

それではここから、

館内展示資料の一部を紹介します。

まず最初に目についた、

というより驚いたのが、、この佐竹義宣の肖像画です✨

上杉景勝や石田三成とともに描かれているのはもちろん、

佐竹義宣に関するこれほど輝かしい肖像画は見たことがなく、ただただ感嘆。。

他に、佐竹氏の略系図もあれば、、

代々の藩主について詳しく紹介しているこちらのコーナーも。

佐竹氏ファンなら見飽きることはなさそうです。

久保田城の復元模型まで。。

規模的には、平城と平山城の中間くらい、といった印象。

秋田藩の初代藩主ともなった佐竹義宣は、

自らの領地を理想の町とするため、土崎湊へのアクセス、

そして城全体の防御面を考慮した様子が伺えます。

それが今の秋田市の商工業につながっていると思うと、感慨深いものがあります。。

御隅櫓(おすみやぐら)は1,2階が展示室になっていて、

エレベーターで4階まで上がると、このような展望フロアになっています✨

この展望フロアから眺める秋田市中心部の様子。。

模擬天守や櫓が資料館になっていて、

このような展望フロアがあるのはよく見る光景です。

そして、このアングルが好きで、毎回撮影してしまいます😅

展望フロア内部はこのような感じです。

御隅櫓(おすみやぐら)の外に出てきました。

佐竹氏の歴史について、学ばせていただきました。

そして、この御隅櫓(おすみやぐら)の裏側にはこのような下りの階段がありまして、、

先に触れていた、帯曲輪をここで確認することができます。

帯曲輪門の横にそびえる土塁上から見下ろしていた帯曲輪が、こちらのスペースです。

この区画にて城兵は、写真の左側から攻め上ってくる敵兵を迎撃するわけですね。

写真の右側、一段高い区画が本丸になります。

こちらが、今下りてきた階段なのですが、、

ここを右に進むと、鐘楼があるようです。

行ってみます。

道を進むと、さらに下にいく階段が、、。

最初に登ってくる時はそれほど高さを感じませんでしたが、

こう見ると、やはり平山城という規模ですね。。

しばらく歩くと、このような光景も広がり、

さらに奥に進んでいくと、、

お目当ての鐘楼がありました!!

整備されたのか、比較的新しく、

ただ、この上には登れないようになっていました。

本丸内にある八幡神社にも参拝。

これまでに帯曲輪門などの各種門、帯曲輪御隅櫓(おすみやぐら)などなど、

さまざまな遺構、防御施設などを見てきましたが、

まだまだこの久保田城跡には見るべきものがあります。

鐘楼の位置からすぐのところにある、こちらの階段を上り、

また本丸方面へ。

少し歩くと、茶室もあり、

八幡秋田神社や稲荷神社もあります。

神社に行ってみます。

到着しました!

こちらが、秋田八幡神社ですね。

木の造りがなんとも、、。

やはり、このアングルいいですね。

平成20年の再建って、かなり最近ですね😳

手前には大きな鳥居を確認できます。

そしてその隣には稲荷神社もあります。

戦国当時の城跡、特に本丸内にはほぼ必ず鳥居、神社があります。

その理由は、城跡の歴史によるところがあるみたいですが、ここでは藩主を敬うべく祀っているのかと。

それでは、この神社一帯を撮影した動画がありますので、ご覧ください。

神社本殿の構えも立派ですが、この稲荷神社の複数の鳥居群も見応えありますよね。。

表門と御物頭御番所も必見!!

久保田城跡で見るべき遺構はまだまだあります。

というか、次に紹介していく表門御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)は必ず見ておいた方がいいです。

八幡神社などを検分し終え、

さらに本丸内を探索します。

本丸のほぼ中央付近に、

秋田藩最後の藩主・佐竹義堯(さたけよしたか)公の銅像がありました。

割と、見上げるほどの高さがありました。

本丸の外縁沿いに歩いていくと、

今度は埋門(うずみもん)跡を発見!

”土手を切って出入り口とし、その上に多門長屋を渡した”っていうことは、、

普通に門とは見えない造りになっていたということでしょうね。。

こちらが、その多門長屋跡です。

当時は、このあたりはもっと土手が高く、

その下に隠れるように埋門(うずみもん)があった、ということなのでしょう。

まさに、埋められた門。。?

本丸も、二の丸と同じくらい広いです。

この写真の背面に御隅櫓(おすみやぐら)があり、

ここを先に進んで、表門を検分しに行きます。

こちら、二の丸から最初に登ってきた裏門のところです。

覚えておいででしょうか?

実はこの先に表門があります。

こちらが、本丸側から見た表門です。

これまでに見た門の跡とは違い、しっかりと復元されています。

この表門の特徴として、

このように城兵が監視(見張り)できるよう、上り階段がついています。

他の城跡の例に漏れず、こちらの門も何度か火災に見舞われていたようですね。

そして、この表門の警備を固める施設として、

次に紹介する御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)があります。

こちらが、表門付近に設置してある、御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)の説明板です。

”久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物”だそうです。

こちらがそうです。

ここはありがたいことに、靴を脱いで中にお邪魔することができます✨

中はこのようになっています。

もう一枚。

さらに一枚。

再建されているとはいえ、

当時、この場所で、警備の武士たちが詰めていたということですね。

あらためて表門を眺めてみると、、

佐竹氏の家紋がしっかりと、、。

門の足元をみると、このような、、。

産地が茨城県になっている!

、、ということは、元の所領地である常陸(茨城県)から運んできた?

、というような妄想が膨らみます😅

それではここで、表門の様子を撮影した動画をどうぞ。

どうしても自分の好きなアングル=下から見上げるアングルで撮影してしまいます💦

お分かりの方もいらっしゃるはず。。

ちなみに、表門御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)の位置関係はこのようになっています。

それでは、ここから”城下町”に下りていきます。

三の丸の位置関係から、佐竹義宣の”町造り”にかける思いを読み解く。

ここまで二の丸➡️本丸と登城していく中で、さまざまな遺構を検分してきました。

ここからは、逆に三の丸を含む城下町の様子を見てまわります。

表門の先にあるこの石段を下りていくと、、

実は相当の高さがあったことが分かります。

正直、この久保田城の標高を軽視していました💧

これは立派な平山城ですよね。。

ここもかつては長坂門というのがあったようです。

本当に、この久保田城は門が至る所にあり、防御が固かったことが伺えます。

これが長坂門の説明書きです。

この石段を下りていくと、二の丸に至るわけですが、

その前にもう一度振り返り、表門を眺めてから。。

二の丸まで下りてきて、今度はこちらの方面(市街地方面)へ坂道を。。

ここにも松下門というのが!!

ほんと、どれだけ門があったの!?というくらい、佐竹義宣の城造り、凄まじいですね。。

水運の要でもあった土崎湊に近い位置にこの門を設け、

城下町の商工業発展に努めた佐竹義宣の思いが読み取れます。

その松下門を抜けると、市街地へと向かう緩やかな坂道があります。

JR秋田駅の西口から至る町です。

市街地側から眺めたアングルです。

右奥には、あきた芸術劇場ミルハスというのが見えます。

その向かい側に、このような標記がありました。

かつては重臣の屋敷があった三の丸、城の搦手(からめて:裏側)に該当するようです。

さらに、中土橋門跡までありました。

いったい、どれだけこのような門があるのか、と先ほどから思ってましたが、

どうやらこれが最後のようです。

今歩いてきた広めの通りは、中土橋通りといいます。

かつては、多くの商人や町人で賑わっていたのかもしれません。

『久保田城跡』の石碑があるところまできました。

蓮池がある大きな堀を渡るように、中土橋通りが市街地につながっています。

写真の左奥側が、最初に検分を開始した秋田駅側になります。

ここの堀も結構広いんです。

反対側にも水堀が広がっています。

この写真の道を奥に進むと、日本海側、土崎湊方面になります。

佐竹義宣は、ここから港につながる道を整備し、城下町発展に努めたのでしょう。

今の秋田市街地にも堀のような川がつながっていて、かなりな規模の城下町だったことが読み取れます。

それでは、久保田城検分の旅はここまでとします。

またの記事で会いましょう!

➡️『各地の城一覧』ページ