前橋城(厩橋城)築城の所以となる、利根川の激流に翻弄された城〜石倉城(いしくらじょう・上野(群馬))
利根川の激流に流されたが故に、遺構はほぼ残らず?
こんにちは、シンです。
2024年10月17日(木)。
この日、利根川の対岸沿いにある前橋城を訪れたその足で、
今度はこちらの石倉城(いしくらじょう)へ
石倉城は中世、長尾氏によって築かれたとされていますが、
利根川の激流によって城そのものが流され、
結果として厩橋城(現在の前橋城)が築かれることになったとか。。
これがきっかけとなったのかは定かではありませんが、
武田信玄が石倉城を攻略、そこを足がかりに厩橋城、箕輪城を攻略したようです。
前橋城と同様、最寄駅のJR新前橋駅からは距離があり、
タクシーでも約8分、徒歩だと約25分くらい。
どうせなら前橋城と合わせて巡ってみることをおすすめします。
前橋城からですと、徒歩10分くらいの距離感です。
(※私は実際、前橋城跡を検分した後に、歩いて向かいました。)

上のGoogleマップにある中央大橋にて、利根川を渡り、
石倉城跡を目指しました。

前橋城の記事でも触れましたが、
橋を渡る途中で利根川の流れを撮影
中世にはこの利根川が氾濫するほど荒れ狂っていたとは信じられませんが、、
坂東太郎の異名を持ち、石倉城のみならず、前橋城も押し流し、付近の集落を飲み込んだとか。。
恐ろしいものです。。

Googleマップを頼りに現地に近づいてみると、、
住宅地の中ほどにポツリと姿を現しました
写真をご覧いただいてお分かりのように、それなりの広さがある公園です。

周囲を住宅に囲まれていますが、、
しっかりと石碑もあり、説明板もあります。

石碑の脇に、石碑に背を向けるように、こちらの鳥瞰図がありました。
私は北側から城跡に近づいてきたので、まずこちらの鳥瞰図が目に飛び込んできました。
この図を見ても、戦国当時は堀と土塁に囲まれたしっかりとした造りだったことが伺えます。

公園をぐるりと南側に回って初めて、
『石倉城二の丸公園』という木の看板を見つけました。
公園内には土塁らしきものもなく、目立つような遺構は確認できません。
全ては利根川の激流に流された上に、周囲も宅地化し、残る可能性は皆無だったのでしょう。。
つくづく残念なことです。。

『石倉城二の丸公園』内には、遺構を確認できず、
そこから一度Googleマップに目を転じ、
今度は近くの『石倉城外堀公園』と『石倉城外堀跡』を目指すことに。

まずは、『石倉城外堀公園』へ。
こちらも、『二の丸公園』と同じく、今ではただの公園になっていて、
遺構はおろか、その痕跡すら見当たりませんでした。

こちらも、『石倉城外堀公園』の看板はありました。
それ以外は、なんの変哲もない普通の公園です。
『外堀』周囲も結局、遺構らしきものは見つからず。。
『石倉城外堀公園』にも遺構を見つけられず、
最後に『石倉城外堀跡』に寄って、石倉城の検分を終えることにしました。

こちらも、Googleマップにしたがい、現地に近づいてみると、
『上石倉ミニ公園』という標記を近くに発見したのですが、、
外堀跡らしきものは見当たらず。。
写真の奥に行ってみることにしました。

Googleマップが示すポイントにドンピシャで来てみたのですが、、
外堀跡とはっきり分かるような痕跡はどこにもなく、、。。
結局、確認できたのは『二の丸公園』と『外堀公園』のみ。
まあ、利根川の激流に押し流されたこと、宅地化したことから、その遺構を追うのは難しいのでしょう。
その経緯が分かっただけでも良しとするべきかもしれません。
これにて、石倉城の検分を終わります。
では、またの記事で!