四つの曲輪の関係性から、防御に対する奥深い工夫が見られる〜小坂城(おさかじょう・常陸(茨城))

小規模ながら防御に工夫が見られる平山城

こんにちは、シンです。

2024年9月9日(月)。

今回は、小規模な平山城ながら奥深い防御構造を確認できる城跡を紹介します✨

茨城県牛久市にある小坂城(おさかじょう)です。

小坂城(常陸・茨城県)

◉城のジャンル

平山城(ひらやまじろ)

◉文化遺産としての見どころ

評価 :3/5。

◉防御施設としての見どころ

評価 :4.5/5。

◉アクセス

城跡の向かい側に4台駐車スペースあり

最寄駅:JR常磐線牛久駅からタクシー約15分

小坂城は国道408号沿いにあります。

最寄駅はJR常磐線の牛久駅ですが、タクシーで約15分という距離ですので、

車で訪れることをおすすめします🚙

城跡のすぐ向かい側に、このような簡易的な駐車場があります。

ご覧のように、4台分しか駐車できませんが、

城跡によっては専用駐車場がないところも多く、

これだけきちんとした駐車場があるのはありがたい限りです😀

道路を挟んで駐車場のすぐ向かいに、

このように小坂城跡があります。

ここに至る道路も少し上り坂になっていまして、

典型的な平山城(ひらやまじろ)ですね。

城主は岡見氏であり、小田氏の一族であること、

この地域が北条と佐竹の攻防の最前線であったこと、

などがこの説明板から読み取れます。

そのすぐ横には、小坂城の防御構造を記した説明板もあり、

四つの曲輪が相互に土塁と空堀を巧みに配し、横矢を仕掛けるという巧みな防御戦法が見られます。

こういう構造を見ていると、少なからず北条氏の築城技術、その戦法を模している気がしてきます。

その曲輪の配置図を拡大してみました。

それぞれの曲輪を囲む土塁・空堀が複雑に折れ曲がり、

一つの曲輪から、他の曲輪に侵入した敵兵に対して『横矢掛り(よこやがかり)』を仕掛けられるようになっています。

『横矢掛り(よこやがかり)』

:折れ曲がって造られた土塁の上から、曲輪への侵入口に攻め入る敵兵に対し、

斜めに、あるいは横合いから弓矢を浴びせる戦法。

城内への侵入口が狭いエリアに敵兵が密集し、かつ側面攻撃ということもあってかなり効果的だったと思われます。

説明板の脇にふと目をやると、、

ここは比較的傾斜が緩やかで、敵兵からしたら容易に登れそうな感じがします。

ここについては後で、説明いたします。

それでは、説明板のすぐ左にあるこちらの登城口から、いざ!!

平山城らしく、それなりの高さの階段を上っていきます。

そしてまず目にした説明板が、こちらの「笄松物語」です。

決して多くはないですが、城跡を訪れていると、

いくつか、こういったその地に伝わる伝承、物語が説明されている場所に出くわします。

当時の情景を想像させる、興味深い逸話です。

その説明板のあった広場がこちらです。

ここは曲輪ではないのですが、曲輪並みの広さがあります。

(※曲輪(くるわ)とは、城内の兵が待機・防御するための平たいスペースです。)

決してそこまで大きくはない規模の城跡ですが、

それでもこういった矢印版があると、曲輪の位置関係や現在地の把握に役立ちます。

これまた、城巡りする人にとってはありがたいことですね。

まずは三の曲輪から検分を!と進んでいくと、

早くもこの城跡の秀逸な防御構造を目の当たりにします。

その様子を動画でご覧ください。

各曲輪の間に巧みに空堀・土塁が配置され、奥には少し高さの違う土塁が見られます。

この後、さらにその理由などについて解説していきます。

決して深くはないのですが、(長い年月の経過で埋もれてしまったのでしょう。。)

空堀と土塁の跡を確認できます。

敵兵に集中射撃を浴びせるための最適な土橋、土塁の配置!!

まずは三の曲輪を検分、といきたいところだったのですが、

すぐ目の前に土橋があり、この配置がまた秀逸だったので、先に紹介しておきます。

この土橋の左右には(当時は)深い空堀があり、三の曲輪から二の曲輪に進むためには、

この土橋を渡らなければならず、その渡るところを、一の曲輪の土塁上から射撃を浴びる、という、

敵兵にとっては恐ろしいキルゾーンだったわけですね。。

その土橋が、こちらです。

どう頑張っても、一度に2人がやっと渡れるほどのスペースでしょうか。

写真の右奥が二の曲輪、左手前が三の曲輪です。

それでは続いて、三の曲輪の様子を動画でご覧ください。

どの曲輪もそうですが、周囲に土塁が巡らされ、

その土塁の間、数箇所に虎口(こぐち:曲輪への出入り口)が見られます。

こうして空堀跡を見てみると、、

決してまっすぐな掘り方ではなかったことが分かります。

曲がりくねっているため、仮に敵兵がこの中を侵入するとしても、

進軍速度が遅れ、土塁上から弓矢の餌食になっていたことでしょう。

三の曲輪の右奥から、次は四の曲輪へ。

四の曲輪の説明板です。

ここでは、茶碗などの貴重な遺物が発見されていたようですね。

”特殊な文化的空間”とあります。

城内では、あるいは兵たちの憩いの場であり、宴会などが開かれていたのかもしれませんね。。

四の曲輪の北側は城外であり、

こちらには低いながらも土塁が見られます。

城外は現在は住宅地になっています。

一の曲輪と二の曲輪の防御関係を確認!!

それでは、次にいよいよ城の中心部、

二の曲輪、そして一の曲輪へと進んでいきます。

先ほど紹介した土橋を渡り、まずは二の曲輪へ。

二の曲輪の内部へ進む前に、二の曲輪の土塁上から三の曲輪

そして右奥に見える四の曲輪を撮影しました。

あらためて、各曲輪の位置関係がお分かりいただけるでしょうか。

二の曲輪の内部に入ってすぐのところに、こちらの説明板があります。

二の曲輪は、一の曲輪の北側と東側をL字型に囲んで防御しています。

一方、一の曲輪の南側と西側には土塁がなく、これは二の曲輪を援護射撃するためのようです。

この説明だけでも、曲輪相互の防御連携が伺えますね。

二の曲輪は、このように右奥にL字型に折れ曲がっていて、

写真の右側に位置する一の曲輪を防御する配置になっています。

もう少し、一の曲輪に寄せて撮影したのが、こちらです。

二の曲輪を奥まで進んでみると、

この説明板がありました。

城の南東部には、なんと、腰曲輪竪堀もあったのですね。

腰曲輪:山腹をぐるりと囲むように平たく削った防御スペースであり、

下から攻め登る敵兵を迎撃するのに適していました。

竪堀:曲輪を囲む空堀とは垂直に掘ったもので、敵兵が山腹を迂回するために横移動するのを防ぐ目的がありました。

図を拡大してみると、、

どうやらこの説明板の下側にあるようです。

残念ながら、腰曲輪らしき遺構は確認できませんでしたが、

竪堀と思われる堀跡を発見しました!

この写真ではかなり分かりにくいですが、

中央に窪みがあり、縦に(写真の右下から左上にかけて)掘られているのを確認できます。

さあ、続いて一の曲輪へ!!

ここも三の曲輪と同じ規模の広さがありました。

一の曲輪の説明板です。

先ほどの二の曲輪での説明でもありましたが、

南・西側の土塁と北・東側の土塁の高さが異なっているのが特徴ですね。

ふと一の曲輪の奥に目を向けると、

また別の説明板がありました。

なんとも、これまた興味深い説明です。

機会があれば、泉城というところにも足を向けてみたいと思います。

一の曲輪の説明板の奥にまた、別の説明板が見えます。

こちらは、二の曲輪に面した北・東側の土塁ですね。

それほど高くはないですが、土塁跡がはっきりと分かります。

櫓台の跡でした!

主に櫓は、城内でも比較的高い位置に造られ、城内および城に迫る城外の敵兵を監視し、

城兵に急を知らせる役割を果たしていました。

その櫓台があった土塁上から見渡してみました。

手前に二の曲輪を囲む土塁が見えます。

当時は実際に櫓が存在し、もった高い視点から見渡せていたでしょうから、

その奥の三の曲輪四の曲輪、果ては城外まではっきりと見えていたと思われます。

そして、こちらは城の南西側を囲む土塁です。

北東側に比べて一段高いと言われている土塁ですね。

奥に一般道が見えます。

では最後に、一の曲輪の土塁上から城内全周を見渡した動画を収めていますので、

おさらいの意味でも、小坂城の曲輪の位置関係をご確認ください。

城跡の入り口から進んで、三の曲輪四の曲輪

そして土橋を渡り、二の曲輪へ。

こうしてあらためて見ると、二の曲輪に面した一の曲輪の北東側の土塁は一段低く、

外側に面した南西側の土塁は少し高くなっていますね。

こちらは、一の曲輪の南西側の斜面です。

南西側は土塁が一段高くなっているとはいえ、この斜面は傾斜が緩やかであり、

敵兵にとってはそこまで登るのに苦ではないように見えます。

なぜ、こういった造りになっているのかは謎のようですが、

そこを考察してみるのも、城巡りの醍醐味かもしれませんね。

それでは、小坂城の検分はこれで終わりとします。

またの記事で会いましょう!!

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