東京・大手町ビル群の間に不自然に佇む鎮魂碑〜平将門の首塚(武蔵・東京)
皇居のすぐ目の前。東京メトロでのアクセス抜群。
こんにちは、シンです。
2024年5月29日(水)。
本日は少し趣向を変え、城跡ではなく、とある墓碑を参拝に🙏
東京都大手町にある将門塚です。
◉城のジャンル
城ではない
◉文化遺産としての見どころ
◉防御施設としての見どころ
◉アクセス
東京メトロ(東西線・半蔵門線など)大手町駅C5出口から徒歩1分
ここを訪れるには、車で行ってもいいのですが、
東京メトロ大手町駅からすぐ目の前にあるので、
断然地下鉄のご利用をおすすめします🚃
Googleマップをご覧いただいてもお分かりのように、
実は皇居のすぐ目の前にあります。
少し写真を交えて、その周囲の状況を説明しますね😀
私は今回、東京メトロ東西線を利用して大手町駅で下車。
Googleマップが指し示す通り、C5の出口を目指しました。
電車の利用に慣れている方はご存知かと思いますが、
駅周辺の著名な施設は大体、その目指すべき出口が表示されてますね。
実は、今回の目的地である平将門の首塚(将門塚)は、ビル群の間にあり、
三井物産ビルがその代表的なところです。
駅構内をC5出口を目指して歩いていると、こういった掲示もありますので、
ますます「こちらで間違いない」と確信するに至りました。
ありました!!
C5出口です。
ここの階段を上って地上に出ると、お目当ての将門塚は目の前です。
階段を上り切って地上に出ると、
右側に皇居が見えます。
(木が視界を遮っていますが、実際に現地に行くと皇居のお堀を確認できると思います。)
その皇居と反対側に少し歩くと(感覚的には徒歩約20秒くらい?)、
お目当ての将門塚が見えてきます。
ほんと、ビルの間に挟まれるように存在しているんですよ。。
それでは、なぜこのように将門塚が不自然なまでにビルの間にあるのか、
以下で説明させていただきます。
”将門の祟り”の由来とは?
今からおよそ1千年前、坂東(ばんどう:現在の関東地方)では民の生活が困窮を極めるなか、
時の権力者、京の藤原氏が全盛であり、坂東でも国の司が私利私欲に走るあり様でした。
この状況を憂いた将門は兵を挙げて坂東を平定、自ら『新皇』と称して新たな政治を行おうとしました。
将門は民のために立ち上がったのですが、朝廷からは朝敵(朝廷に刃向かう逆賊)と見なされ、
平貞盛・藤原秀郷に討ち取られてしまいます。
討たれた将門の首は京都に送られますが、
三日後には東に向かってその首が飛び去り、武蔵国豊島郡に落ち、
陽の光が消え、闇夜のようになったと言われています。
その首が落ちたところが今の将門塚の地であり、人々は祟りを恐れ、
塚を築いて将門の首を埋葬したとか。。
また、これは私が昔、
歴史ドキュメンタリー番組で見て恐怖した話でもありますが、
第二次対戦後、この地を宅地開発しようとしたところ、ブルドーザーが横転、
運転手は死亡、それ以前にもここの開発・撤去の件で不審死が相次いだため、
”将門の祟り”と恐れたようです。。
それ以降、この大手町に高層ビルが立ち並ぶことはあっても、
この一角だけは誰も触らず、そのまま保存されています。
今でも人々の崇拝を受ける将門公。
上記の”祟り”だけを読んでいると、
いかにも恐ろしい怨霊というイメージがついてしまいそうですが、、
実際には人々の崇拝を受ける”英雄”であります。
将門塚の正面にある石碑です。
現在は、このように周囲を柵壁のようなもので覆われており、
保存会の人の、将門公を敬うお気持ちが見て取れます。
これは今からおよそ2年前(2022年11月に撮影)のものですが、
塚そのものが分厚いガラス材のようなもので保護されていました。
おそらく、周囲のビル建設から保護するためのものだったと思われます。
「祟りを恐れて、、」というよりは、
大切なものを守らなければ、という気概のようなものを感じます。
2年前にはこの塚の周囲に、このような過去の記事も掲載されていました。
この日訪れた際もそうでしたが、
何人もの人がこの塚の前で手を合わせ、祈っていました。
(※中には塚の前で膝をつき、ぬかずいている人まで。。)
それだけ、将門公は今の世の人々からも愛され、崇拝されている証拠ではないかと。
”弱きものを助け、強きものに刃向かう”。
その英雄としての心意気があるからこそ、
関東の多くの城跡でも将門公を祀る神社があり、人々の畏敬の対象となっているのだと思います。